さわらぬ女神にタタリなし ——薬師寺涼子の怪奇事件簿 (出典:魔天楼 薬師寺涼子の怪奇事件簿) 田中 芳樹・著      ㈵ 「平和と退屈は同義語である」  とは誰がいったことだろう。 「退屈に耐えうる者だけが平和を希求《ききゅう》できる」  なんてセリフもあった。重みのあるセリフだが、最初から平和を希求していない人物にとっては何の意味もない。 「あー、タイクツだこと。何か血なまぐさい事件がおきないかなあ」  デスクにみごとな両足を投げだした姿勢で、平和主義にケンカを吹っかけたのは、私の上司《じょうし》である。ひややかに私は答えた。 「つい先日、警視庁長官と警視総監の首をまとめて切りとばしたくせに、何がタイクツですか。ほどほどにしておかないと、神サマが怒りますよ」  私の名は泉田準一郎《いずみだじゅんいちろう》。警視庁刑事部に所属する三三歳の警部補である。ふだんはいたって不信心《ふしんじん》なのだが、上司の神をも畏《おそ》れぬ行動を見ていると、つい陳腐《ちんぷ》なイヤミのひとつもいいたくなる。 「泉田クンの発言を聞いてるとさ、あいつらが辞任したのは、まるであたしのせいみたいじゃない」 「ちがうとでもいう気ですか」 「ええ、ちがうわよ。ひとえに、あいつらの危機管理能力が不足してたからじゃないの。だいたい無事に退職して、退職金も恩給ももらえるんだから、おめでたいかぎりでしょ。これでモンクをいったらバチがあたるわよ!」  バチがあたるのはしかたないとして、涼子《りょうこ》にバチをあてられたのでは、長官も総監も浮かばれないだろう。  警視庁刑事部参事官・薬師寺涼子《やくしじりょうこ》。二七歳にして警視。人は彼女を「ドラよけお涼」と呼ぶ。「ドラキュラもよけて通る」という意味だ。容姿、才能、経歴、財力、どれをとっても完全無欠。趣味は上司をいびることと、騒ぎを大きくすること、そしてあとしまつを他人に押しつけること。警視庁はじまって以来のトラブルメーカー、というよりはトラブルクリエーターだが、おえらがたのさまざまな弱みをにぎっている上、いくつも怪事件を解決している実績があるので、彼女をやめさせることなど誰にもできないのだ。  内線電話が鳴り、私は受付からの報告を受けた。涼子への面会人がいるというのだ。  二分後、その面会人があらわれた。  涼子の部下になってからは、私は、なぜか美女に会う機会が増えたような気がする。いま眼前にいるのは、清楚《せいそ》な若奥さま風の美女で、年齢は三〇歳ぐらいか。やや後方にひかえているのは、おそらく妹だろう。正面にいる女性よりすこし若く、鼻やあごの形がよく似ている。 「わたしたち、こういう者です」  差し出された名刺《めいし》を見ると、「花岡天海」「花岡空海」と書かれてある。 「天海《てんかい》サンと空海《くうかい》サン?」  歴史上、有名な坊さんがふたりそろってよみがえったのか、と思った。そうではなかった。  花岡天海の職業は「フラワー・コーディネーター」、空海のほうは「国際保険コンサルタント」となっている。どちらも仏教とは関係なさそうだ。 「私は天海《てんみ》、妹は空海《くうみ》といいます」  ちょっと無理な読みのように思えるが、私がとやかくいうスジアイではない。 「それで、どんなご用件でしょうか」  私の問いに、姉のほうが答えた。 「涼子さんにお目にかかって、ご相談したいことがありまして」 「涼子さんというと、薬師寺警視のことですね」  ある意味で妙な念のおしかたをしたのは、「涼子さん」という呼びかたがどうもしっくり感じられなかったからだ。むろん返事はイエスだったので、私は彼女たちの来訪をとりつぎ、涼子の執務室に送りこんだ。  三〇分ほどで花岡《はなおか》姉妹が辞去《じきょ》すると、いれかわりに私が涼子の執務室に呼びつけられた。 「悪いけど、ちょっとつきあってくれる? 知人の知人の知人が事件に巻きこまれたらしいの」  花岡姉妹の姉のほう、つまり天海が涼子の知人だという。彼女の妹、つまり空海の恋人が、奇妙な状況で行方不明になった、というのだった。 「花岡天海という女《ひと》がどういう女なのか、お聞きしていいですか?」 「オヤジの愛人よ」 「オヤジって……お父上ですか」 「いくらあたしでも母親をオヤジとは呼ばないわよ」  私は記憶のテープを巻きもどした。涼子の父親である薬師寺|弘毅《ひろき》は、かつては警視庁のキャリア官僚で、現在は巨大企業|JACES《ジャセス》のオーナー社長である。資産は一〇〇〇億円ぐらいで、年収は二〇億ぐらいだったかな、とにかく私には現実感のない数字である。ほんもののブルジョワなのだ。  薬師寺弘毅の妻、つまり涼子の母親は、一〇年ほど前に亡くなっているはずだ。弘毅氏が愛人を持っていても、不倫《ふりん》ということにはならない。オトナの関係というやつである。  薬師寺氏は、現在ニューヨークへ出張中だという。愛人をつれていかないのは現地で調達するつもりだからだろう、と、娘の憶測はシンラツだった。 「で、天海さんは火曜日の担当なんだけどね」 「担当?」  私は意味を把握《はあく》しそこねた。 「オヤジには愛人が五人いるのよ。ひとりずつ、月曜日から金曜日まで担当してるってわけ。土曜日と日曜日はフリー。わが父親ながら、道徳の敵だわね」 「お父上はいくつでしたっけ」 「ちょうど六〇のはずよ。戸籍をごまかしてなければね。オヤジならやりかねないけど」  六〇歳で愛人が五人。めでたいというか、おさかんというか。私はくだらない冗談を思いついて、口にしてみた。 「で、妹さんのほうは木曜日あたりですか」 「はずれ。水曜日」 「え……!?」 「冗談だってば。妹の空海さんにはちゃんと恋人がいたの。それもふたり。ま、何人いてもいいけど、ひとりが売れない画家で、ひとりが売れない舞台俳優。どちらも自称天才。売れないのは世間がオロカだから」  にがにがしげな口調になって、涼子は吐《は》きすてた。 「いるのよねー、そういうやつ。クリエーターとしてもアーティストとしてもまったくだめなくせして、自分の生活力のなさを美化する才能だけはたっぷりあるやつがさ」  よくいえば、涼子はコトバをかざらない。わるくいえば、身もフタもない。いったん床におろしていた脚を、ふたたび彼女はデスクに投げ出した。 「で、そういうやつにひっかかる女がかならずいるんだ。けっこう顔も頭もいいくせして、何でああも口先だけの男にエジキにされるんだろ。あげくに、ひとりが失踪《しっそう》して、ひとりが容疑者だって」  涼子の発言の最初のほうは、私も同感である。「何であんな口先だけのやつが、才能ある女性にもてるんだろう」とフシギに思ったことが何度もある。まあ男というものは、自分がもてない理由と他人がもてる理由とがどうしてもわからない生物ではあるが。 「ま、とりあえず所轄署《しょかつ》に行ってみましょう。たしか自由《じゆう》が丘《おか》だったわ」 「どちらが失踪《しっそう》したんです?」 「画家のほうですって」  長谷川三千男《はせがわみちお》という三五歳の男が姿を消したのだ。しかも衣服を残して。  画家の長谷川は有名な美術大学を卒業して、一〇年以上になるが、さっぱり目が出ず、イラストレーターへの転向をはかっていたという。「それぐらいなら何とでもなるし、すぐカネにもなる」といっていたそうで、これは安直《あんちょく》な話だし、イラストレーターたちに対して失礼でもあるだろう。それでも、怪物だの魔道士だのが登場するパソコンゲーム・ソフトの外箱に絵を描く話が持ちこまれた。じつは話をつけたのは花岡空海だが、恋人のプライドを傷つけないよう、その点は秘密にしてある、という。 「自立もできずに、何がプライドよ」  と、涼子などはせせら笑うのだが、それはともかく、長谷川はアトリエと称する安アパートの一室にこもって仕事を開始した。  昨日のこと。空海のもうひとりの恋人である舞台俳優の鳥井星志が長谷川をおとずれた。鳥井のほうもとんと一人前になれずにきて、声優へ転じようとしていたという。以前から長谷川と鳥井は仲が悪かった。これはまあ当然のことだろう。ひとりの女性を間にはさんで、たがいに存在を知っているふたりの男の仲がよかったとしたら、かえって気味が悪い。ましてふたりともカイショウがなくて、女性の経済力に依存《いぞん》していたとしたら、たがいに軽蔑《けいべつ》しあっていただろうし、女性に見放されることに恐怖をおぼえてもいただろう。  で、鳥井が長谷川のアパートをおとずれたのは、長谷川と電話で口論したからだ、という。たいそう勝ち誇った、酒を飲んでいるような声で、長谷川は告げたそうだ。 「すごいものを手にいれた。今度こそおれは成功する。空海はおれのものだ。お前なんぞもう相手にしてもらえないだろうよ。気の毒だなあ、生ゴミみたいにすてられて」  さんざんののしられた鳥井は、長谷川をなぐりつけてやるつもりで、恋敵《こいがたき》のアパートへ駆けつけた。鳥井のアパートは目黒区の自由が丘にあった。自由が丘はおしゃれな街だが、ところどころに安アパートが残っている。長谷川はミエをはって、「自由が丘に住んでいる画家」と称していたわけである。  鳥井は長谷川のアパートのドアをたたいた。 「誰?」 「鳥井だ、ここをあけろ!」 「迷惑だ、帰ってくれ」 「話があるんだ、あけろ!」 「話なんか何もない、帰ってくれ。でないと警察を……」  呼ぶ、というつもりだったのだろうが、長谷川の声がとぎれ、あらあらしい息づかいにつづいて、なんとも形容しようのない悲鳴がアパート全体にとどろいた。  うろたえた鳥井は、その場を離れようとして脚を踏みはずし、階段から転落した。住人の誰かが警察に通報したようで、パトカーのサイレンが近づいてくる……。      ㈼  涼子と私は覆面パトカーで自由が丘署に向かった。黒いジャガーで、かえって目立つのだが、涼子の所有車《もちもの》だから誰もモンクをいえない。鼻歌まじりでハンドルをにぎるのはもちろん涼子である。彼女の「運転哲学」を知っているので、私は助手席で硬直していたが、とりあえず上司に釘をさした。 「やりすぎたらだめですよ、権限もないくせに。逮捕するには逮捕状が必要です。くれぐれも自由が丘署の足をひっぱらないでください」 「逮捕するには、たしかに逮捕状が必要だけど」 「だけど?」 「ぶっ殺すのには、殺人許可証は必要ないのよ。だから、逮捕なんかしないで、犯人をぶっ殺してしまえばいいじゃない」 「そんなムチャな理屈が通るとでも思うんですか」 「うるさい! あたしが通れば道理がひっこむのよ!」  それ以上、私はさからわなかった。道理がこそこそひっこむ姿を、視界のはしにちらりと見たからである。  事態がどうころぶやら、想像すると寒気《さむけ》がしてきた。車外はよく晴れたおだやかな晩秋の一日なのだが、人工の氷嵐《ブリザード》が吹きあれるかもしれない。何とか、この件が涼子のタイクツしのぎの役に立ってほしいものだ。期待はずれだったりしたら、涼子はさらにフキゲンになるにちがいないから。 「天海サンはオヤジとはもう三年ぐらい関係がつづいてたと思うわ。フラワー・コーディネーターとしてはけっこう有名なの」  走りつづける車のなかで、涼子は、艶福家《えんぷくか》の父親について語った。 「愛人になる以外に能のないような女、オヤジはきらいなのよ。何か才覚があって、必要なときに必要なだけ援助をしてやればきちんと自立できるような女が好きなの。だから、これまでの愛人たちはみんな店やオフィスを持って独立してるってわけ」 「ずいぶんゼイタクな好みですね」  佳《い》い女がなかなか男にまわってこないわけだ。ようやく私のところにひとりまわってきたと思ったら、ダイエットに理解のない恋人をすてて、南半球へと去ってしまった。  ちょっと感傷的な気分になりかけたが、私はせつない記憶を追いはらってムダ話をつづけた。 「で、そういった女性たちの店やオフィスは、JACESの情報収集基地になってるわけですね」 「そうよ。どうしてわかったの?」 「……私は冗談のつもりだったんですが」 「そのていどの冗談じゃ、オヤジに勝てないわよ。人間界のもっとも悪質な冗談を粉にして、非常識という名の水でねりあげて、地獄のカマドで焼きあげたのが、うちのオヤジなんだから」  実《じつ》の娘がそこまでいうか。 「そうですか、ま、いずれにしてもお父上に勝とうなんて思っていませんから、どうでもいいですけど」  話題を打ちきるつもりでそういったのだが、なぜだか涼子はムキになった。 「いまからそんなこといってどうするの! どんな手段を使ってもいいから、オヤジを追いつめて降参させなきゃだめじゃない」 「そんなことをいわれても……」 「最初からそんなに弱腰だったら、カサにかかったオヤジにどんな無理難題《むりなんだい》を吹きかけられるか、知れたものじゃないわよ。覚悟を決めて、敵よりアクラツな手段で、テッテイテキにたたきつぶして再起不能にしてやるの。いいわね!?」 「何で私が覚悟を決めなきゃならないんですか。あなたのお父上がそんなに危険な人なら、近づこうなんて思いませんよ。家庭内の覇権抗争《はけんこうそう》に、部下をまきこまないでください!」  たまりかねて私が声を大きくすると、涼子はだまりこんだ。何かに気がついたような表情がひらめいて消え去ると、涼子はやや白々《しらじら》しい口調をつくった。 「まあいいわ。今日のところはとりあえず天海サンの件をかたづけるとしましょう」  自由が丘署に着くと、駐車場に黒いジャガーをとめて、私たちは建物にはいった。昭和時代のナゴリを濃厚にとどめた、古びて殺風景《さっぷうけい》な建物だ。  玄関に立っていた制服警官が、涼子を見て目と口を大きくあける。どぎまぎして、用件をきくことも忘れたようすだ。涼子は平然として、彼の前を通りすぎ、私をしたがえてさっさと階段をあがった。この署の捜査課とは以前の事件で知りあいである。涼子はさんざんワガママにふるまったあげく、刑事たちのメンツを丸つぶしにする形で事件を解決してしまったので、いまでもニクまれているのだ。  涼子の姿を見た刑事たちは、一瞬ぎょっとしたようだが、決心したようにひとりが近づいてきて、芸のないイヤミをいった。 「本庁の参事官のようなエライお人が、こんなところへ何のご用で?」  このていどのイヤミでは、涼子の白珠《しらたま》のような肌にかすり傷すらつけることはできない。 「用があるから、こんなキタナイところに来てあげたのよ。あー、やだやだ、安タバコとラーメン、ビンボーくさい社会派の悪臭がただよってるわ。昭和の遺物《いぶつ》よね。これだから未解決事件も多くなるのかしら」  刑事たちの顔面筋肉がひきつる。私はさりげなく一歩すすみ、旧知の坂田《さかた》警部補に連絡してもらった。  捜査課の部屋を出ていこうとしたとき、聞こえよがしの声が背中を打った。 「けっ、キャリアにシッポをふりやがって、裏切者《うらぎりもの》が」  私にとっては二重三重に不本意《ふほんい》ないわれようだった。足をとめ、振り向きざまに反論しようとして、私はやめた。キャリアに対するノンキャリアの心情は、私にもわかっているつもりだ。  だから無視してすませるつもりだったのに、そよ風を暴風に変えてしまうのが私の上司である。ハイヒールのかかとが勢いよく床に鳴って、涼子がわざわざ引き返してきた。 「ちょっと、面と向かって何もいえないイクジナシのくせして、何をえらそうな口をたたくのよ。泉田クンがあたしに忠実なのは、キャリアにシッポをふってるからじゃないわ。あたし個人に服従するのをヨロコビとしているからよ。よくおぼえておおき!」  刑事たちは沈黙して、私はあわてた。「ヨロコビとしてなんかいませんよ」といったりしたら、さらに事態が悪化するから、その件については無視して涼子をせかせる。 「早く行きましょう。坂田警部補が鳥井星志に会わせてくれますから」  取調室《とりしらべしつ》のひとつで、坂田警部補と鳥井星志が私たちを待っていた。坂田警部補は赤黒いカニみたいな顔の中年男だが、人柄は悪くない。  鳥井星志は美男子だった。とはいっても、彼以上の美男子はいくらでもいるだろう。線の細い、たよりなげな雰囲気が女性の保護欲をそそるらしいが、同性から見ると、たのむからまっすぐ立ってくれ、といいたくなる。せめてもう少し姿勢《しせい》がよくないと、舞台俳優として大成《たいせい》するのはむずかしいだろう。まあ、よけいなお世話だが。 「あなたたちが、ボクの無実を証明してくれるんですか」  甘えるような声を鳥井は出した。私には目もくれず、ひたすら涼子を見つめている。自分の顔が女性に感銘をあたえることを信じきった表情だった。 「あんたが無実ならね。そうでなければ有罪を立証してあげるわよ。その結果、いまは任意同行でも、正式に逮捕ということになるかもしれない。あたしはある根拠によって、ヘボ画家の長谷川はもう死んでいると思うけどね」  鳥井は息をのみ、両手で頭をかかえた。 「長谷川がもう死んでいる? おお、何という残酷な所業《まね》だ! 何という血なまぐさい話だ! 何という悲惨なできごとだ!」  すると、半《なか》ば歌うような、半ばあざけるような声が答えた。 「何というオオゲサな反応だ。何という空虚な台詞《せりふ》だ。何という不実《ふじつ》なおどろきようだ」  鳥井がだまりこんで声の主を見やる。声の主はむろん薬師寺涼子である。彼女はあからさまなケイベツのマナコで若い俳優を見やった。 「あんた、プロをめざすならもうすこし自分の言葉ってものを持ったほうがいいんじゃない? そんな貧弱なボキャブラリーじゃ、この国の首相ぐらいしかつとまらないわよ」  鳥井の顔に怒りと失望があらわれた。何かいいたそうだったが、ボキャブラリーの貧困《ひんこん》さがわざわいしたか、作戦を立てなおす必要をおぼえたか、結局、だまりこんだままだった。  涼子は坂田警部補をかえりみた。 「現場にのこされていたという絵を見せてくださる?」 「はあ、こちらへどうぞ」  涼子に対する態度を決めかねているようすで、坂田警部補は私たちを先導した。地下の証拠品保管室へとみちびく。建物は古いが、保管室のドアだけは新品で、暗証番号のボタンを押してあけるようになっている。  私たちが見た絵は「食人鬼《しょくじんき》」と題されていた。  暗く濁《にご》った色調で背景が塗りつぶされており、前方には若い女性が描かれている。恐怖に目と口を大きく開き、両手をかざして逃げまどう姿だ。衣服が破れ、白い肌があらわになっている。たいして魅力も独創性もない絵で、故人《こじん》となった長谷川には気の毒だが、イラストレーターとしても才能が豊かだとは思えなかった。  それより重要なことは、絵の中の空白である。不自然な形で、絵の具がごっそり落ち、キャンパスがむき出しになっているのだ。それは両腕をかかげ、頭に角《つの》のある、大きな人間の形をしていた。  絵のなかの食人鬼がぬけ出して画家をくいころし、どこかへ姿を消した、ということになるのだろうか。あまりにばかばかしくて、私は口に出すのをはばかった。それが常識人の態度というものである。  ところがだ。薬師寺涼子の辞書に「タメライ」という項目はない。ご自慢の胸をそらして、彼女は断言した。 「犯人はアキラカ。もはやうたがう余地《よち》はないわ。絵のなかの食人鬼がぬけ出して画家をくいころし、どこかへ姿を消したのよ!」      ㈽  坂田警部補の眉がひくついた。口をあけたが何もいわずに閉じたのは、自制の結果であろう。気の毒ではあるが、そのていどのストレス、私には毎日のことである。 「たちどころに犯人を指摘していただいて、たいへんありがたいことです」  ようやく、坂田警部補はうなり声を出した。不遜《ふそん》きわまる態度で、涼子はうなずいてみせる。私はなるべくさりげなくフォローした。 「問題は犯人をどうやって逮捕するかですね。絵のなかの食人鬼に、裁判所が、逮捕状を出してくれるでしょうか」  フォローは失敗だったようだ。坂田警部補の顔が噴火寸前にひきつるのが見えた。 「あたしにまかせておきなさい。ただ、この件に関しては、犯人の所在をアキラカにする資料が必要なの」 「資料はどこにあるんですか」 「警視庁のあたしの部屋。ちょっと確かめにいかなくてはね。助手A、ついておいで」  涼子がハイヒールのかかとを鳴らして歩き出したので、私は坂田警部補に一礼してあとを追った。坂田警部補の表情を見ると、私が知人の信頼を失ったことはたしかなようだった。だが、私としては上司にしたがうしかない。涼子の発言はムチャクチャなようだが、私にはひっかかるものがあった。  警視庁へひきかえす車内で私は涼子に問いかけた。 「参事官がおっしゃったのは、食人鬼を描いた絵具《えのぐ》が生きていた、ということですか」 「そういってもいいけど、より正確には、特殊な微生物を絵具にまぜるの。その微生物が光を受けると、仮死状態からさめてうごめきだす。そしてその場にいる人間を食べつくしてしまうというスジガキね」 「そんな微生物がほんとにいるんですか」  こういう平凡で常識的な質問をするのが、ワトソン役の義務というものである。わがうるわしのホームズ女史は、あざやかすぎるハンドルさばきで、とびだしてきた猫をかわした。 「以前に読んだ英国の『ネイチャー』誌によるとね、クマムシという微生物がいてね、学問的には緩歩《かんぽ》動物とかいうらしいんだけど、マイナス二五三度C、六〇〇〇気圧という苛烈《かれつ》な環境下でも生存できるの」 「六〇〇〇気圧!?」 「体の湿度をいちじるしく低下させて超高気圧に耐えるのよ。そうやって乾燥して、粉末状態に見えるのを『タン状態』と呼ぶんだけど、クマムシの同類でもっと極端なものに、�|Qovejuna《クォヴェフェーナ》�というのがいるの」  女王さまは警視庁にご帰還あそばした。  ハイヒールを鳴らして闊歩《かっぽ》する涼子の姿に視線があつまる。彼女に敵意や反感をいだく者(つまり警視庁関係者の大部分)でも、彼女の姿勢と動作の美しさは認めざるをえない。ひざをまげず、長いスネを前方に投げ出すような歩きかたで、背筋《せすじ》はまっすぐ伸びている。征服した土地で敗将《はいしょう》を引見《いんけん》する女王サマのようにカッコいい。  涼子の執務室の書棚には、エタイの知れない古書の類《たぐい》がならんでおり、彼女以外には書名も内容もわからない。だからわざわざ彼女自身で確認にもどらなくてはならないわけだ。  書棚の隅《すみ》から、彼女は一冊の分厚《ぶあつ》い洋書を引っぱり出した。 �Libro de las Indias y hechicerias�  どうやらスペイン語の本らしいが、それ以外は私にはさっぱりわからない。革《かわ》の表紙をつけた、辞書のような感じの本だ。  私は大学は英文学科を卒業した。第二外国語はフランス語を選択した。ドイツ語でなくフランス語にしたのは、どうせならフランス産のミステリーを読みたいと思ったからだ。怪盗ルパンだとかメグレ警部とかオペラ座の怪人とか、そういうやつをである。ドイツ文学にはミステリーの伝統がないから、私としては当然の選択だった。  その結果、英語もフランス語も自由自在になったか、かというと、もちろんそんなことはない。英語は中学生よりはマシ、というていどだし、フランス語は単語をいくつか知ってます、ぐらいのものだ。その点だけでも、私は涼子に遠くおよばない。 「日本語に訳すと『インディアスと妖術に関する書』とでもなるかしら」 「インディアスというのはインドのことですか」 「コロンブスがインドだと信じていた土地のことよ」 「ああ、なるほど、わかりました」  西暦一四九二年に大西洋横断に成功したクリストファー・コロンブスは、南北アメリカ大陸をインドだと信じこんでいたのだ。 「一六世紀のスペインに対する君のイメージは?」 「そうですね。大航海時代に無敵艦隊《アルマダ》、異端審問《いたんしんもん》にドン・キホーテ、アメリカ先住民の虐殺《ぎゃくさつ》……そんなところですか」  脳裏《のうり》で世界史の教科書のページをめくりながら私は何とかそれだけ答えた。 「まあまあね。ドン・キホーテの出版は一七世紀の初頭だけど、内容的には一六世紀末のスペイン社会を描いたものといえる。で、この本のなかにホセ・デ・バルベルデという悪党の話が出てくるの」  なにしろ昔話《むかしばなし》を集めた本だから、バルベルデは残忍で強欲《ごうよく》、それこそ「昔話に出てくるような悪党」なのだそうだ。  彼がスペインのトレドにある自宅で謎の失踪をとげたのは、西暦一五九八年のことだという。 「その当時は毎年、五トンの黄金と三〇〇トンの銀が、大西洋をこえてスペイン本国へ運ばれたそうよ。現代の貨幣価値になおすと、何兆円になるかしらね」 「それなりに経費だってかかったんでしょうね」 「ないにひとしいわ」  そっけなく涼子は断言する。 「だって、よく考えてみてよ。そもそも人件費がいらないんだから」 「ああ、そうですね」 「インディオ」と呼ばれていたアメリカ先住民を家畜のように酷使《こくし》していたのだから、人件費など必要ない。軍人であったバルベルデは五年にわたって現地の鉱山で監督をつとめ、おおいに功績をあげた。つまり、何万人という先住民の血と涙の上に大量の金銀を山づみして、スペインに帰国したのだ。 「そして無限に流れこむ金銀はスペインを豊かにはしたけど、勤労者としてのスペイン人のモラルを急激に低下させていったの。当然といえば当然のことね。で、はたらかなくなったスペイン人のかわりにせっせとはたらいて、経済を動かすようになったのがユダヤ人なのよ」  シェークスピアの「ベニスの商人」の世界だ。ユダヤ人に対する反感が、ヨーロッパ各地ではぐくまれていく。  おなじころ、スペイン国内で迫害されていたプロテスタントが、叛乱をおこしたけれどたちまち鎮圧される、という事件があった。バルベルデはそのときずいぶん残酷に事件を処理して、プロテスタントの幼児まで殺しているし、無関係のユダヤ人に共犯のヌレギヌを着せて拷問《ごうもん》し、釈放と引きかえに大金をまきあげている。  その後、バルベルデは軍を退役《たいえき》し、悠々《ゆうゆう》と引退生活にはいった。  つまりバルベルデは、インディオとユダヤ人とプロテスタントの三者から憎まれ、うらまれ、呪われる人物であったわけだ。一言でいえば「弱い者いじめの卑劣な悪党」というわけだが、こんな男でも家庭ではよき夫よき父親であったという。これはまあよくあることで、アウシュビッツの看守などにも見られる例だ。  めずらしいのは、バルベルデに画家の才能があったことだろう。この時代のスペインの大画家といえば、エル・グレコ、本名ドメニコ・テオトコプーロスだが、バルベルデは彼に対して強烈なライバル意識を燃やしていたらしい。後世の私たちから見れば、「エル・グレコにライバル意識? 何とだいそれたやつだ」ということになるが、どんな偉人でも同時代人からは「運のいいやつ」としか思われないものである。  バルベルデはせっせと絵を描きつづけた。そこそこの名声は得たが、エル・グレコとの差はひらく一方だった。バルベルデはあせり、ついに、絵具が悪いだの筆が悪いだの、責任を他に押しつけはじめた。召使《めしつかい》のひとりは、酒に酔ったバルベルデに筆で目を突かれ、失明してしまった。バルベルデの評判はさらに下落《げらく》し、ますますバルベルデは粗暴になった。  とある日、ユダヤ人の年老《お》いた商人がバルベルデの屋敷をおとずれた。 「じつは私ども、インディアスより渡来しました不可思議《ふかしぎ》な絵具を手にいれましてございます。ヌエバ・エスパーニャ副王領の奥地の密林に産しますキノコより採取したものでございまして、光をあてますと微妙にうごめきます。これで絵を描きますと、あたかも、生きたもののごとくに見えましょう」  ヌエバ・エスパーニャ副王領というのは、やたらと広い土地だ。現在のメキシコとベネズエラ、それに中央アメリカ諸国と西インド諸島の全域にまたがっている。だから「奥地」というのはずいぶんおおざっぱな表現なのだが、バルベルデはあやしまなかった。エル・グレコをしのぐことができるなら、邪神《じゃしん》の力を借りることもいとわない気分だった。それでも、いちおう慎重をよそおって、尊大に答えた。 「眉唾《まゆつば》な話だな。おれの才能は絵具なんぞに左右されるものではないが、まあ試《ため》してやってもよい。手持ちの分を全部置いていけ。代金はあとばらいだ」 「それはこまります。半分はエル・グレコさまにご予約いただいておりまして……いえ、代金はたかだか一〇〇〇レアルていどのものでございますが……」  一〇〇〇レアルというのは、その当時、信用ある開業医のひと月分の収入であったという。絵具にしては高価すぎるが、エル・グレコの名を聞いた以上、バルベルデはひくにひけない。二五〇〇レアルを支払って、絵具をすべて買いとった。むろん、 「おれをだましてみろ、血管を切りひらいて全身の血をブタに飲ませてやるぞ」  という脅《おど》しとともに、である。  バルベルデは「魔法の絵具」をかかえて、豪奢《ごうしゃ》なアトリエにこもった。巨大なキャンバスに、「地獄へ追い落とされるルシファー」と題する絵を描くつもりだったという。家族もアトリエへの出入りを禁じられ、三〇年来の従僕《じゅうぼく》だけが一日二回、アトリエの扉口《とぐち》まで食事を運ぶだけであった。ちょうど五〇日後の夜、 「できたできた! ルシファーの全身が光に応じて動いておる!」  という狂喜の叫びを、従僕は聞いたが、アトリエにははいらず、扉口にワインとパンとガリアーノ(鳥肉とウサギ肉と野菜の煮こみ)の深皿をおいてひきさがった。そして翌朝また食事を運んでくると、昨夜の食事は扉口におかれたまま冷《さ》めきっている。相談の末、家族が扉を破ってみると、アトリエのまんなかにはキャンバスがおかれ、床には衣服や画材が散乱していたが、主人の姿はなかった。キャンバスの絵は完成していた。ただ中央に魔王の形をした大きな空白があるのをのぞいては。      ㈿ 「……それで犯人はつかまったんですか?」 「つかまるわけないでしょ。一六世紀のスペインには、あたしがいなかったんだもの」 「はあ、なるほどなるほど」 「なるほどは一度でいいわよ。ま、犯人がわかっても、あたしは逮捕したとはかぎらないけどね」 「同情ですか」 「感謝よ。イヤなやつを消してくれたんだから」  そのときの絵具にまじっていたのが�Qovejuna�だということが、涼子の手にしたスペイン語の本に記されている、というわけであった。 「この本はまだ日本語に訳されていないのよ。魔法の絵具の存在を知っているのは、スペイン語を読めるやつだけ。そういうことになるわね」  そういうと、涼子は私に命じて、自由が丘署の坂田警部補に連絡をとらせた。私は電話口で平身低頭《へいしんていとう》しながら、もういちど鳥井星志にあわせてくれるよう頼んだ。  一時間後、ニガムシを半ダースまとめてかみつぶしている坂田警部補の前で、薬師寺涼子警視は、鳥井にむかって頭ごなしに決めつけた。 「あんたが長谷川を殺したんでしょ。白状おし!」 「おお、何というひどいイイガカリだ。何という非科学的な推理だ。何というズサンなとりしらべだ!」 「すこしだけ演技が進歩したわね。声をおさえることをおぼえたじゃないの。でも、ま、あいかわらず一流への道は遠そうだけど」  涼子の皮肉で、鳥井の態度が一変した。ふてぶてしい表情になっていいかえす。 「そういうあんたはどうなんだ? 一流の捜査官にしちゃ、やってることがいいかげんで、証拠もないし手順も踏んでないじゃないか」 「あたしは一流じゃないもの」 「へえ、あんたでも謙遜《けんそん》するのかい」 「何ネボケてるの。あたしは一流じゃなくて超一流よ。だから手順なんて省略していいことになってるの」  鳥井星志が絶句《ぜっく》したので、それにかわって、というわけでもないだろうが、坂田警部補が私にささやいた。 「おいおい、泉田サン、このまままかせておいて、ほんとにダイジョウブなんだろうな」 「そうですね、ま、タイタニック号に乗った気で安心してたらいかがです」 「安心できんよ、それじゃ!」  坂田警部補は、声とストレスをひとかたまりに吐き出して、颯爽《さっそう》たる薬師寺涼子の後姿をにらみつけた。  涼子はというと、ヘボ役者の鳥井星志を相手に何やらしつこく話しかけているが、声が小さいうえに早口らしくて、私にはよく聞きとれなかった。鳥井星志の声のほうは聞こえた。 「何いってんだよ、せめてボクにわかる言葉で話してくれ」  そして取調用のテーブルに手を伸ばすのが見えた。茶碗をとって、口をつける。空気が乾いているのと、大声でしゃべったのとで、咽喉《のど》が渇いたらしい。天井を向いて勢いよく茶を体内に流しこんだ。  それを涼子はじっと見ていたが、無言だった。 「まったく、つきあいきれないよ。正式につぎの呼び出しがあるまで、ボクは帰らせてもらう。ボクの話を聞きたかったら、令状《れいじょう》だったかな、そいつを持って来てくれ」  そして鳥井は私たちに嘲笑《ちょうしょう》を向けながら立ちあがった。坂田警部補はうなり声をあげた。このようなとき、わざと鳥井の前に立ちはだかって身体を接触させ、「公務執行妨害!」とどなる策《て》もあるのだが、さすがにそこまではできなかったようだ。 「また近いうちにお会いしましょうかね」  そうイヤミをいうのがせいぜいだった。鳥井は口もとをゆがめ、勝ち誇ったような視線を涼子に投げつけた。 「ひとつききたいがね、正義の味方|面《づら》して人を裁《さば》くのが、それほど楽しいのかい」  痛烈《つうれつ》な一言をあびせたつもりだったろうが、涼子にはまるで効果がなかった。 「あら、もちろんよ。これ以上、楽しいことがあったら教えてほしいわね。ぜひやってみたいから」  鳥井星志は絶句した。涼子は皮肉っぽく笑ってつけ加えた。 「ま、せいぜい咆《ほ》えてなさいよ。どうせ長くはないから」 「お前らまとめて人権侵害でうったえてやるからな。首を洗って待ってろよ」  そういいすてて鳥井は出ていった。これが生前の彼にとって最後のセリフとなった。というのも、その夜のうちに、かれは世田谷《せたがや》区下北沢《しもきたざわ》のマンションから永遠に姿を消したからだ。  鳥井の帰宅をとめることはできなかったが、自由が丘署としては彼を好きかってに行動させておくつもりはなかった。坂田警部補の指示で、刑事がふたり、鳥井のマンションに張りこんだのだ。マンションとは名ばかりのアパートだが、道をへだてて駐車場があるので、そこで晩秋の夜寒《よさむ》に耐えて、刑事たちは張りこんだのだ。  二階の鳥井の部屋に灯火がともり、何時間かが経過した。叫び声が聞こえたように思って、刑事たちが目をこらすと、窓のカーテンに、人影がうごめくのが映った。苦悶しているようすだ。刑事たちのひとりが携帯電話で署に連絡、もうひとりが駆けつけてドアを破ってみると、室内は無人で、ぬぎすてたような感じの衣服が床に散乱していただけであった。  人の出入りなどなかったことについては、刑事たちが証人である。鳥井は消えてしまったのだ。  翌日は土曜日だったが、困惑《こんわく》しきった坂田警部補から連絡を受けて、私はすぐ涼子に報告した。「やっぱりね」というのが、上司の返答である。 「あのダイコン役者が犯人なわけないのよ。昨日あたしがスペイン語でさんざん面と向かって悪口をいってやったのに反応がないんだもの。気がついたでしょ、泉田クンも」  そういえば鳥井星志は、「ボクにわかる言葉で話してくれ」なんていっていた。あれは比喩《ひゆ》でもイヤミでもなかったのだ。 「それじゃ犯人は……」 「花岡空海よ」 「たしかですか」 「花岡空海は今年の五月まで、カリフォルニアに三年間ほどいたの」  私は納得した。カリフォルニアには|スペイン系《ヒスパニック》の住民が多い。スペイン語を修得《しゅうとく》する機会はいくらでもあったろう。 「空海が犯人だとして、動機は何です。いつまで待っても一人前にならない恋人たちに、いやけがさしたというところですか」 「もう少し積極的よ。身辺整理」 「ほかに恋人ができたとか……」  涼子はなげかわしそうに首を振った。 「君、そんな発想しかできないと、時勢おくれになっちゃうぞ。空海はJACESに入社して、ロサンゼルス支局の要員になる予定だったの。依存心ばかり強くて自立できないようなオトコは、仕事と出世のジャマというわけ」  男と女を逆にすれば、たしかにめずらしくもない動機だ。だが、そうなると涼子は最初から花岡空海に目をつけていたということになる。鳥井星志を犯人あつかいしたのは、カムフラージュだったということか。 「ま、あいつを犯人あつかいしていれば空海が油断してボロを出すとは思ったわ。でも、あのときには、あいつが犯人ということで丸くおさまれば、それはそれでいいや、とも思ったの。イヤなやつだしさ」 「冤罪《えんざい》ですよ!」 「冤罪のひとつやふたつでっちあげてこそ、一人前の警察官僚といえるのよ」 「いえませんってば」 「わかったわよ。反省してるわよ。だからこうして決着《かた》をつけようとしてるんじゃない」  涼子は口に出さないが、みすみす鳥井星志を死なせてしまったのは、犯人の空海にしてやられたわけだから、いまいましいにちがいない。  自由が丘の坂田警部補に連絡すべきだ、と私は思ったが、協調性ゼロどころかマイナスの涼子にはそんな手間をかける気はないようだった。私をしたがえて、黒いジャガーで花岡空海のマンションに直行したのだ。  空海のマンションは渋谷区の西原《にしはら》にあって、これは上に「高級」とつけてもよい。涼子の黒いジャガーが前に駐《と》まっても違和感はなかった。  空海は、外出するので来客は迷惑だ、とインターホンで答えたが、涼子が鳥井星志の名を出すと、ドアのロックを解除して私たちを自室に通した。  低層のマンションだが、高台《たかだい》にあるので、リビングルームの窓からは新宿の高層ビル群を望むことができる。だがむろん涼子はのんびりと風景を愛《め》でる気はないらしく、すでに外出用のスーツ姿になっている空海に、冷笑まじりの視線を向けていた。 「カイショなしどもをかたづけて、いよいよあたらしい生活にはいろうというところを、ジャマして悪かったわね」 「何のことでしょうか」  当惑《とうわく》したように、空海は眉をひそめる。 「よんどころない事情があってね、この件をあたしは午前中にかたづけたいの。あんたの演技はダイコンの鳥井よりましだけど、貴重な時間をついやしてまでつきあうだけの価値はないわ。ありがたい世の中で、ふたりの人間を殺しても、たぶん無期懲役《むきちょうえき》ですむでしょうから、さっさと自首しなさい」  正面からの攻撃である。はたして空海に対して効果があるものやら。  今度は空海はうすく笑った。からかうように小首をかしげてみせる。 「大変な自信ね。でも、あなたにはどのていどのことがわかってるっていうの?」 「殺人の動機と方法」 「それはあなたが思いこんでるだけでしょう? とくに方法については立証できないんじゃない? 第一、死体がないのに殺人を立件《りっけん》できるのかしらね」  楚々《そそ》たる風情《ふぜい》の美女だが、鳥井なんぞよりよほどしたたかな対応ぶりだ。 「立件するのは自由が丘署の仕事だし、起訴して公判を維持するのは検事の役目よ。あいつらはあいつらで苦労すりゃいいの。あたしとしては、あんたを放っておけないだけ。お姉さんをおなじ方法で消してアトガマにすわろうなんて、ずうずうしいことを実行されちゃたまらないからね!」  私は涼子と空海を見くらべた。なるほど、そういう可能性もあるわけだ。空海はJACES内で出世したいだろうし、姉の天海のようにオーナー社長の愛人になれば、立場はさらに強化される。いや、オーナー夫人が不在なのだから、結婚して時期オーナーの地位につく可能性すらあるのだ。そして、犯罪者というものは、これまで成功してきた方法を変えることはない。決定的な破局にいたるまで、おなじ方法を何度もくりかえすのである。 「ばかばかしい。あなた、妄想癖《もうそうへき》があるんじゃないの」  わざとらしい笑声を空海はたてたが、涼子は平然として言葉をつづけた。 「あんたのお姉さんは笑わなかったわよ」  一瞬にして、空海の笑い声は可聴域《かちょういき》から消え去った。 「今朝、出勤前にあたしは天海サンに電話して、考えてたこと全部、話してあげたの。あの女《ひと》も当然、生命と地位が惜しいわけよね。あんたがカリフォルニアから帰る直前、航空便を送ってきて帰国後に受けとったことを思い出してくれたわ。植物の標本だといわれたけど、白い粉末だったから麻薬じゃないかと心配で、念のためこっそり一部分を保存しておいたんですってさ。鑑定すればわかることよ。観念おし!」  沈黙は重かったが、長くはなかった。奇妙なうめき声が空海の口からもれたと思うと、彼女の身体は硬直し、ソファーに倒れこんでいったのだ。      ㈸  私は空海に近づき、あらためて彼女をソファーに横たえ、手首の脈をとってみた。 「弱いけど、ちゃんと脈がありますね」 「転換性ヒステリーの発作《ほっさ》よ。死にやしないわ」 「これもご存じだったんですか」 「天海サンから聞き出したの。必要があったら、もっと心理的に追いつめるつもりだったけど、案外もろかったわね」 「証拠の粉末とやらは、ほんとうにあるんですか」 「あるわけないでしょ」  涼子は優雅な指さばきで髪をかきあげた。 「安直《あんちょく》な野心の報《むく》い。同情なんかするのは精神エネルギーの浪費ってものよ。逮捕だの起訴だの裁判だの、めんどうな手間は自由が丘署のほうにまかせて、これで万事、終わりにしましょ」 「そうはいきませんよ」 「どうしてよ。犯罪の背後にひそむ現代社会の病理のツイキュウなんて、ヒマ人にまかせとけばいいの。あたしにヒマなんかないのよ。午後から国立劇場でロイヤル・シェークスピア劇団の『リチャード三世』を観《み》るんだから」  さきほど「よんどころない事情」と空海に向かっていったのは、劇を観ることだったらしい。 「現代社会の病理なんかツイキュウしなくてもかまいませんが、食人鬼はツイキュウする必要かあるでしょう?」  マイナス二五三度Cでも六〇〇〇気圧でも死なない食肉性の微生物が、東京の地下ででも繁殖《はんしょく》しはじめたら、どういうことになるか。ハリウッド製SFホラー映画のような光景が、私の脳裏に浮かんだ。 「そうなったら自衛隊にまかせりゃいいのよ。ようやく出番が来て、自衛隊《れんちゅう》だってよろこぶでしょ」 「それまでに多くの犠牲者が出ますよ」 「そうなったとしてさ、あたしのせいなの?」 「幾分かの責任がありますよ。破局が来る可能性を承知しながら、何の手も打たないとしたらね」  私はQ何とかという微生物の名を思い出そうとしたがだめだった。 「ええと、その微生物をやっつける方法は、例のスペイン語の本には書いてないんですか」 「いちおう書いてあるけど」 「じゃ、それを実行しましょう」  すると、涼子は、人の悪い笑いを浮かべて答えた。 「いいのかな。例の本に書いてある方法はこうよ。家ごと火を放って焼きつくすべし」  私は舌打ちしたくなった。 「そりゃまた簡潔《かんけつ》な記述で」 「じつはこの方法だって、完全とはかぎらないわ。原子炉のなかで生きている微生物だっているわけだしね。それでも他に方法はないでしょうから、自衛隊が火炎放射器を持ち出すのが一番いいはずよ」 「ハデですしね」 「そうそう、そうよ」 「だめです。もっと他の方法をマジメに考えてください。私は空海がどこに微生物を隠しているか探しますから、その間に」 「あてはあるの?」 「かたっぱしから探しますよ」 「それじゃ時間がかかりすぎるわ」 「そんなこといっている場合ですか!」  私がリビングルームを出ていこうとすると、涼子は「お待ち」と声をかけ、しかたなさそうにそう告《つ》げた。 「かたっぱしから探す必要はないわよ。このマンションの部屋には、たぶんバスルームがふたつあるでしょ。住人ひとりにバスタブふたつは必要ないわ」  うなずいて、私はバスルームの位置を確認した。広い浴室、洗面所、トイレがあり、その他に、三者が一体になったせまいホテル式バスルームがあった。私は手袋をはめてせまいバスルームにはいり、蓋《ふた》をとってバスタブをのぞきこんだ。密閉された強化ガラスのケースが見えた。ケースの内部にはカビらしいものがはえており……それ以上、確認する必要はなさそうだった。  リビングルームにもどると、涼子が電話をかけていた。私の顔を観ると、「いそいで」と先方に告げて受話器をおく。 「いま手配したの。JACESの社員がすぐに駆けつけるわ」 「火炎放射器を持って?」 「ちがうわよ」 「じゃ、セメントですね」  私がいうと、涼子は、まばたきとともにうなずいた。 「そうよ、よくわかったわね」 「一六世紀のスペインにはセメントはなかったでしょうからね。焼くしか方法がなかったでしょうけど、考えれば微生物を殺してしまうのは困難だし、あえてその必要もない。活動を封じこめてしまえばいいんですからね。では私は坂田警部補に連絡します」  電話に手をのばしかけて、私は空中でとめた。涼子をかえりみる。 「妹がやっていたことを、姉のほうはまったく知らなかったんでしょうかね」 「さあね、妹の野心に異づいて、たくみに妹をあおり、破局に追いこんだのかもしれない。ま、たとえそうだとしても、あたしがいずれ始末《しまつ》をつけるわ」  ……一時間ですべてが終わった。バスタブはセメントでかためられ、花岡空海は、駆けつけた坂田警部補の監視のもと、救急車で運ばれていった。  それを見送って、涼子はギョウギわるくのびをした。 「あー、つまらない事件だったわね」 「そうですかね。けっこう楽しそうにやってるように見えましたが」  私の異議を、涼子は、ワガママいっぱいの表情でしりぞけた。 「だって警視庁長官にも警視総監にも責任をとらせてやる余地《よち》がなかったじゃない」 「たまにはそういうこともありますよ」  いってから、どうもマトモな返事ではなさそうだと気づいた。涼子をなだめるつもりでいったのだが、もしかして彼女に感化されてしまったのだろうか。 「それに終わりかたもジミでイヤ。バスタブをセメントでかためておしまい、なんて、あたしの美学にはんするわ」  想いだしたように、腕時計をのぞきこんで、涼子は声を高めた。 「あら、もうこんな時間。たいへんだ、『リチャード三世』がはじまっちゃう。いそぐのよ、泉田クン」 「何で私がいそぐんです?」 「S席券がむだになるでしょ!」  涼子の手に二枚のチケットがあった。 「あたしがオトモなしで国立劇場に行くはずないじゃない。ほら、いそいで。開演にまにあわなかったら泉田クンのせいよ!」  黒いジャガーに向かって足早《あしばや》に歩き出す涼子のあとを、あわてて私は追いかけた。 参考資料 ドン・キホーテの世紀     岩波書店 スペインの黄金時代      NHK出版 ドン・キホーテの食卓     新潮選書 プラド美術館         新潮選書 黄金郷伝説          講談社現代新書 読者へのあいさつ 「ドラよけお涼」は神出鬼没です。泉田クンも本来は神出鬼没ではないのですが、上司にしたがううちにやはりそうなってしまいました。今回、文庫から新書へのリニューアルという異例の怪挙をなしとげてしまったのですが、すこしページ数がたりませんので、フロクとして短編をくっつけました。垣野内成美さんの新作イラストもついて、たいへんお買い得だと編集部では申しております。お手にとっていただければ、泉田クンの苦労もすこしは報われるでしょう。 田中芳樹(たなか・よしき)  昭和27年熊本生まれ。学習院大学大学院卒。第3回幻影城新人賞、昭和63年の星雲賞受賞。壮大なスケールと緻密な構成によるSFロマン、中国歴史小説で、読者の爆発的な支持を集め、ノベルズ界のスーパースターの地位を確立する。講談社より刊行中の『創竜伝』も記録破りのベストセラー・シリーズとなっている。  本書は、講談社文庫として刊行されたもののノベルズ化+書き下ろし短編という贅沢な一冊。「史上最強の公僕」の暴れっぷりを充分にお楽しみください。